大草原の中
牛と共に暮らし
乳を搾る。
朝の搾乳を終え、
一息ついた牛たちは緑の大海原へ
ゆっくりと歩み出す。
小気味よいリズムで
美味しそうに草を食みながら、
草原に吹く風の中を
ゆっくりと進む。
放牧酪農の町、足寄町で。
サイレージ主体の酪農。季節に関係
なく配合飼料と干し草を餌とし、ほと
んどの時間を牛舎の中で過ごす牛たち。
人間にとってはあまりに過重な労働。
健康を害し、弱っていく牛たち。圧迫
される経営。そんな酪農のスタイルに
疑問を持ち、行動を起こした酪農家た
ちがいる。緑の放牧地に牛を放し、草
を食べさせながら乳を搾る酪農スタイ
ルへ。規模を身の丈に合わせることで、
彼らはついに経営改善をも成し遂げた。
牛にストレスを与えない放牧酪農で手
にしたのは、人間にとってもやさしい
仕事スタイルだった。足寄町の風土に
耳を傾けながら進めた持続可能な循環
型酪農の在り方。そこに、酪農家たち
の大いなるチャレンジがあったことを
忘れたくないと思う。
周囲の力を我が力としながら、
仲間たちと手にした放牧酪農。
「草のもつ飼料的価値に気づくのがもう10年早かったら」。45歳を迎えて取り組んだ放牧酪農につい
て、佐藤さんは我が身を振り返る。しかし、「もし、10歳若かったら、ただ恰好つけるだけで終わってい
たかもしれない…」とも付け加えた。思い通りに行かない酪農経営。落ち込み、悩み、それでも藁をも
つかむ思いでがむしゃらに勉強しながら、悶々と過ごしていた若かりし日々。そう、きっとこのどん底
の日々があったからこそ、佐藤さんはゆっくりと変革への力を蓄えることができたのかもしれない。放
牧酪農研究会を立ち上げ、周りの人たちの経験や知識、やる気や優しさなどを自分の力として取り込み
ながら確立してきた足寄町の放牧酪農。
(放牧酪農家、足寄町放牧酪農研究会 初代会長 佐藤 智好さん)
25歳、すでに酪農家として生きていた佐藤さんがいる。バラ線で傾斜地を囲い、夏の間だけ、草ボウボ
ウの放牧地に牛を放し飼いにしては酪農を営んでいた。結婚を控え、8キロほど離れていた現在の場所に移る。
広くなった牧場。昭和51年に結婚、そして翌年には借金をして牛を40頭にまで増やす。土地も広げ、ほんの
少しだけ放牧をしながら、当時主流だったサイレージ主体の酪農をスタートさせた。息子も生まれ、本来なら
一定の規模をもつ酪農家として佐藤さんには順調な暮らしが待っているはずだった。
時代的に安い穀物が外国から大量に入ってきていた。「配合飼料をたくさん与えて、大量に乳を搾れ」。酪
農の世界でも「大きいことはいいことだ」という掛け声が飛び交う。佐藤さんも波に乗り遅れまいと目の前
の仕事に精を出す。草に比べてエネルギーの高い配合飼料を牛に与えるには、胃に負担にならないようにと
何回にも分けて与える必要がある。しかも、夏の間も牛舎で餌を与えるようになっていたから、佐藤さん夫
婦の労働量はたちまち増えていく。餌をやったり牛舎の掃除をしたり、さらには夏の分まで草を収穫したり。
牛舎で働く時間は長くなる一方で、その上牛に与える配合飼料の量が増えたことで、気づけば絞った牛乳代の約30パーセントものお金が飼料代に消えていくようになっていた。
(続きはパンフレットで)